妄想とスケルツォ

投稿した動画に関する戯言置き場

『弟たちのよだかの星』編集後記①

なによりもまず、ご視聴ありがとうございました。

作っているあいだは何度も「改悪では……」と心がしぼみ、出来上がってからも、「自分にとってはいいなと思えるものになったけど、果たしてこれを公開してよいものか…その意味とは……」と、うだうだ悩んでいました。
結局、せっかく作ったのだし…と心臓をばくばくいわせながら投稿ボタンを押したのですが、あたたかく迎えていただいて、ほっとすると同時に、心から感謝しております。

話は変わりまして。

ふだん投稿している「ゆっくり更級日記」シリーズの動画には、本編終了後に毎回、個人的に「ちょっとひとこと」と呼んでいる補足部分があります。
今回の『弟たちのよだかの星』の動画にはそのようなものがないので、こちらでそのかわりになるようなことを、つらつら書いてみようかなあと思います。

とは言いましても、あまり大したことは言えないんですよね。
「あそこはなんでああなったの?」と聞かれても、「やってみたらああなった」としか言えないくらい書きながら形になっていった感じなので…プロットも書かなかったし。
そんなこともあり、どちらかというと編集前記(という名の原作理解のためのメモ書き)を中心に話をすすめていくことになると思います。

ゆる~い内容になりそうですが、気が向いた方はどうぞ。

※PCから、スマホから、など見るものによってズレが生じる可能性があるので、編集前記にあたる部分は記録してあるEvernoteのスクショを貼りつける方法でいきます

 

 


今回の『よだかの星』は、数年ぶりの再読でした。
読解力は今でも相当なポンコツですが、数年前はさらに輪をかけてポンコツだったので、それに比べればすこしは成長していると今回実感できたことは、ちょっとうれしかったです。

この「数年前」がわたしにとっての『よだかの星』の初読でした。
その出会いはというと…授業のレポート課題です。
いくつかある課題作品の中からこの『よだかの星』を選んでレポートを書き、提出し、単位ももらいましたが、ちっとも納得いくものが書けなかった。小学生の作文かな?と自分で思ってしまうくらいの出来だったと思います。
心を打たれ、しっかり感動しているのに、うまく言葉にできない。
悔しい記憶だけが残っていました。

 

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それにしても、ほんの何日か前のことなのに、なぜ「たくさん」「ただ一つ」に色をつけているのか思い出せません…笑
参考文献(『宮沢賢治の全童話を読む』国文学編集部(學燈社))の中で、
「「よだか」には同類がいるはずなのに、そのことはまったく無視され、あえて単数化、孤独化されている」
「「よだか」は、はなから賢治自身に、作者の孤独感の化身になりすぎている」
という原子朗氏の意見(『「よだかの星」をめぐって』『宮沢賢治』)が引用文で紹介されていますが、わたし自身はこの箇所から、そこまでの孤独の強調は感じませんでした。
むしろ、いちばん強く感じたのは「矛盾」だったかもしれません。
毎日何気なく食べていた虫も、自分と変わらない尊いひとつの命だと気づいたから「食べる」という行為をやめようと思ったのに、「ただ一つ」と表現するのは「僕」だけなの…?と。
ただ、今その箇所を読み直してみると、べつに「たくさんの虫」という表現が、虫をなおざりに扱っているということにはならないんですよね。
ほんと、なんで色つけたんだろう?笑
ただ、もしここが「かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてその僕がこんどは鷹に殺される。」という文章だったとしたら、とくに深くは考えず、そのまま読み流してしまうような一文になっていたと思います。
それを、たった5文字を加えるだけで、「かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。」という、これほど引っかかる、印象に残る文章にしてしまう。さすが賢治だと思います。(こういうところが小学生)

 

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ここの部分、ひょっとしたら今回の挑戦でいちばんの収穫かもしれません。
なんで「夜」と「鷹」はダメで「市」と「蔵」ならいいんだ…と気になってたまらなかったので、とりあえず、まずは「市」と「蔵」を辞書で引いてみよう、という軽い気持ちだったのですが。
分かっていると思い込んでいる言葉にもいくつか意味があって、その中には知らなかったものや意外だったもの、そういえば…というものがあり。
そういう、「知っているつもり」だったものの「そうでなかった部分」に、意外なヒントがあったりするということを学びました。
今回でいえば、とくに「市」「蔵」「のろし」がそうです。これらの中の、色をつけている部分を目にした瞬間、作品に対する理解が、ぐんと一段階、深まるような心地がしました。
この手法、今後も気に入った作品や読み解きたいと思った作品には試してみようと思います。
というかそれ以前に、普段からもっときちんと言葉を使わないといけないですね…。なあなあで使いすぎているのかもしれない。

 

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賢治の生家が質屋と古着商を兼業していたということは、今回初めて知りました。
「市」と「蔵」の意味を調べたときに、ひょっとして…と思ってはいたのですが、ずばりその通りだったのでちょっと気持ちよかったです!笑
ところで、参考文献(『宮沢賢治論ー賢治作品をどう読むかー』岡屋昭雄(おうふう))の中で、賢治がレコードを聴いたあと、「やっぱりベートーヴェンはいいなあ」と言ったというエピソードが紹介されていました。

おっ、賢治くん、ベートーヴェン好きなのか。
じゃあBGMはベートーヴェンにしてあげようかな?
でもなあ、投稿する動画を自分の好きなドヴォルザークで統一するというのも捨てがたい…。
うーむ。

などと思っているうちに、あれ、そういえば高校のときの音楽の授業で、賢治作詞の歌を歌った気がするな…歌詞に「花巻」「大三叉路」「百の碍子」「雀」とかが出てくる歌だったはずだけどタイトルが思い出せない…となりまして、賢治のウィキペディアを見に行ったのです。
そうしたら!

ベートーヴェンドヴォルザークの曲をよく聴いていた。」

……。
よろしい、賢治くん、どっちも使いましょう!(満面の笑み)

となりました。
(ちなみに、高校のときに歌った歌は「グランド電柱」というタイトルでした。)
ドヴォルザークの曲には、日本の古き良き童謡や童話に似合いそうなメロディをもつ楽曲がけっこうあります。とくに今回使ったラルゲットは、個人的にいちばん強くそれを感じている楽曲だったので(明るめの曲調の部分なんかとくに)、動画にぴったりハマってくれてとてもうれしかったです。
冒頭の暗い部分のメロディもこの物語の持つ切なさや哀愁を引き立ててくれていて、感謝感謝です。
ラストに使用した「新世界より」の第2楽章については、日本では「家路」や「遠き山に日は落ちて」のタイトルで知られていると思います。
この3つのタイトル、どれも『よだかの星』をよく表しているような気がして、曲自体もラストの場面によく馴染んでくれていて、気に入ってる部分のひとつです。

って!!
今、ここを書きながら、「家路」で合ってたよね…?と不安になって検索したところウィキペディアがあったので見てみたんですが、「日本における普及」の項目の「日本語の歌詞」というところに、宮沢賢治の名前が!
新世界より」の第2楽章に、賢治が日本語歌詞を付けていたのか…初めて知った…。

賢治くん、君ってやつは……。

どうしよう、どんどん賢治が好きになってきました!笑
っていうかちょっと待って、賢治は1896年生まれで、ドヴォルザークは1904年没…。
短いけど同じ時代を生きてるじゃん!賢治うらやま!!

 

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ここについていちばん語るべきだと思うのですが、いちばんどう語ればいいか分からないという。

よだかは、「他の命を犠牲にして生きるというシステム」や、「美か醜かでしか物事を判断しない他者」で構成される世界からの脱却を目指しました。
それは、現在の在り方を否定するということであり、己の肉体(=美醜)と命(=食物連鎖)からの別離を意味します。
それらはよだかを苦しめるものであったので、そこから離れられるということは、よだかにとっては「解放」にあたると考えました。

ただ、この「美醜」という要素を、動画にうまく組み込むことが出来ませんでした。
せいぜいひばりが、「たいして美しくもないのによだかを見下していた」と指摘される部分くらい。

 

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このことは、反省すべき点です。完全なる力不足。
これに対して、わたしという人間は、「だって~、ゆっくりちゃんみんなかわいいから醜い設定にしても説得力ないし~」だの、「身内の美醜…とくに醜に関しては、その関係が良好であればあるほど他者が思うようには身内のことを判断しづらい。よって、他者からの兄への「醜さによる冷遇」がうまくかわせみに伝わっていないということは、ある意味とてもリアルであると言えるのではないだろうか」だのというそれっぽい理由をもって、自分で自分を誤魔化しました…笑
とはいえ、参考文献(『宮沢賢治幻想辞典』畑山博(六興出版))の中に、
「よだかは、しきりに自分は鷹に殺されると言っているが、(略)鷹がよだかを殺すのは、鷹のプライドにとって、よだかがうっとうしいというただそれだけの理由である。そして、この世で人は、食物として他の生きものを殺すよりももっと多く、この鷹と同じ理由で、他者を傷つけ、精神的に、経済的に、圧殺しつづけている。」
という素晴らしい指摘があります。「ほんとそうだよな~」とこの文章がたいへん刺さりまくっていただけに、それをうまく表現しきれなかったことは、やっぱり悔しいです。
精進します。

 

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この画像で前記は最後になります。
【覚書】とありますが、ここまでつらつら考えてきたことのまとめですね。
【疑問】に対する自分なりの見解も述べてあります。これについては、「星になった≠解決」という解釈と「存在するなら(生きていくうえでは)他者と関わることは避けられない」と思う自分の考えとを紐づけたものです。
実はこの部分、はちすずめに仮託させてもいます。

 

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動画の締めくくりの部分ではちすずめはこのように言います。
これは、動画内にはあえて出しませんでしたが、わたしにとっては、はちすずめが前提として「兄の性格を知っているため、星になってもなお何かしらに嘆き悲しんでいるのでは」と考えているがゆえのセリフなのです。
だからこそ、喜びであってくれ、笑顔であってくれと願っているのです。
ただ、これは個人的なこだわりなので、どのように受け取ってもらってもかまいません。
「いや、純粋に兄さんのことを思っているんだよ」というのも全然アリだと思います。
というかそもそも、受け取ってくださった方の数だけ『弟たちのよだかの星』があると思うので、わたしの考えなど気にせず、好きに味わってやってくださるとうれしいです。

 


ここまで触れてきた、再読のわたしの解釈と、初見のときのいちばんの印象「こんなの…弟たちつらすぎない?」とをミックスさせて出来たのが、この度の『弟たちのよだかの星』です。

ただ、注意しなければならないのが、この弟たちがほんとうにこういう弟たちであったかどうかは微妙であるということ。
とくにかわせみは原作で、「蜂雀もあんなに遠くにいるんですし、僕ひとりぼっちになってしまうじゃありませんか。」と言っているのです。これは、意地悪く受け取ってしまえば、「ひとりぼっちにならないのなら、よだかがいなくなっても構わない」と言っているようなもの。
さらに、『よだかの星』のかわせみに対する注釈がp.371にあるのですが(『新編 銀河鉄道の夜宮沢賢治新潮文庫))、そこでは詩篇「花鳥図譜・七月」の詩句が紹介されています。
その中で「兄貴はやくざもの」「おととも卑怯者」と、きょうだいを語っているんですよね。
辛辣なかわせみさん……笑
はちすずめに関しては、遠くにいるというセリフ以外、参考になりそうな記述なしです。

したがって、この動画の弟たちの在り方というのは、「兄弟たるものこうであってほしい」というわたしの願望を具現化したものになります。

原作の中のかわせみが上記のとおりのキツイ性格で、なおかつはちすずめと兄たちとの関係が、描写の少なさどおりの希薄さだったとしたら。
よだかの孤独は、あのような行動に出ることにしか希望を見いだせないほどのものだったのだろうと、納得してしまいます。

賢治の描く善良なキャラクターはほんとうにほんとうに健気なのに対し、そのキャラクターの生きる世界や環境をこれでもかというほどシビアに描写するので、その対比から、両者がより一層くっきり際立つのだと思います。
読者はそこに、はっとさせられたり魅力を感じたりするのでしょうね。

 


いったい誰がここまで読むんだというほど長くなってしまいました。

作品に重点を置いた話はここまでにしていったん区切り、次回は動画化するにあたってのあれこれを書いていこうかなと思います。
(まだ書くのかよ、と自分でも思う)