妄想とスケルツォ

投稿した動画に関する戯言置き場

「【ゆっくりラジオドラマ】セメント樽の中の手紙」の編集後記


久しぶりの更新です。
昨年末に投稿した「【ゆっくりラジオドラマ】セメント樽の中の手紙」をご覧いただきましてありがとうございました。

遅ればせながら編集後記でございます。
とはいいましても、投稿からひと月ほど経ちまして、すっかりなんにも覚えていません。
そもそも思う存分出し切れた作品でもあるので、とくに語ることもないという…

なのできっとあっさりとした内容になってしまうと思われますが、ご興味のある方はどうぞ。

 

 


葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」の初読がいつだったのか。
はっきりとした記憶はありませんが、高校か大学の授業で触れたのが最初だと思います。

大学の授業でのこと。
わたしはぶっちゃけ近代文学は苦手だったのですが、せっかく日本文学を学ぶところに在籍しているのだからと、必修のもの以外にもいちおう近代文学の授業をとっていました。
そのとき扱った作品で、いちばん印象に残ったのが『セメント樽の中の手紙』だったのです。

グロテスクなものが苦手なので、本文中の描写には正直「ウッ」となってしまう部分もあります。いま読んでもそうなので、ハタチそこそこの頃に読んだときの衝撃は、いまだにはっきりと覚えているくらい自分の中に残っています。
でも、そういう部分があったとしても、この作品は魅力的だった。
不穏で、ミステリアスで、それでいてどこか神秘的な空気の漂うこの作品に惹かれ、「レポート課題が出たらこの作品で書こう」と思いました(しかし出なかったような気がする)。

実際、授業での扱いはとてもさらりとしたもので、いくつかのプロレタリア文学と一緒に軽く触れた程度のものだったと記憶しています。
だからこそ、自分の中に妄想の余地があったのかもしれない。

この作品の中でいちばん引っかかったのは、「手紙の内容が本当のこととは限らないじゃないか」ということでした。
それが自分の中にずっと残っていて、こうかもしれない、ああかもしれない、こういう可能性だってある…とあれこれ考えているうちに、手紙を中心に物語を考える思考がうまれたのかもしれません。

そう。
「【ゆっくりラジオドラマ】セメント樽の中の手紙」は、「手紙視点」の作品です。

なんじゃそりゃ!それってあり?と思ったみなさん。
ご安心ください、自分でもそう思います…笑
嗅覚・聴覚・視覚・触覚…手紙にあるとは思えないもののオンパレード。
でもいいんです、きっと。フィクションなのだから。

手紙の設定として決めたことは以下のふたつ。
・自分に書かれた内容(自らの役割)を理解している
・生みの親(書き手)についての記憶がない

とくにふたつめの「書き手の記憶がない」部分によって、わたしのこの作品に対する着眼点である「手紙の信憑性」を表現してみました。
年齢は?
性別は?
身なりは?
教養は?
すべて、わたし自身が書き手について疑ったことがあるものです。この「書き手の人物像」については、この作品の中でいちばん想像をかき立てられた部分でした。

しかし動画の中にもあるとおり、これらがわからないことは「手紙」にとってなんら問題のないことです。問題があるのは男…つまり、松戸与三のほうなのです。なぜなら彼は、手紙の書き手から「あなたは労働者ですか、あなたが労働者だつたら、私を可哀相だと思つて、お返事下さい。」「あなたが、若し労働者だつたら、私にお返事下さいね。」「お願ひですからね、此セメントを使つた月日と、それから委しい所書と、どんな場所へ使つたかと、それにあなたのお名前も、御迷惑でなかつたら、是非々々お知らせ下さいね。」と、再三いわれてしまっているから。

ちなみに手紙の返事を出したのかという問題は、この作品を語るうえでよく議論されるのだそうです。わたしはどちらかというと返事を出さなかったのではと思う派なのですが、たとえば「松戸与三」という名前から、返事を出したとする考えもあるそうです。

それにしても、「やっぱり手紙だ」と思いませんか。
主人公は松戸与三かもしれません。でも、この作品の軸はやはり「手紙」が握っているといえるのではないでしょうか。

動画内で手紙が「男はすっかり別人のようになってしまった」といいますが、実際に原作でも、手紙を読んだことであきらかに与三の中のなにかが変化します。
そのことが顕著に表れているのが、「へゞれけに酔つぱらいてえなあ。」という与三の言葉と、「彼は、細君の大きな腹の中に七人目の子供を見た。」という、この作品の締めの一文です。
すこし、掘り下げて考えてみます。

作品冒頭から手紙を読み始めるまでのあいだにある「飲酒」と「子供」に関する記述を抜き出してみます。
・彼は、ミキサーに引いてあるゴムホースの水で、一と先ず顔や手を洗つた。そして弁当箱を首に巻きつけて、一杯飲んで食うことを専門に考えながら、彼の長屋へ帰つて行つた。
・「チェッ!やり切れねえなあ、嬶は又腹を膨らかしやがつたし、……」彼はウヨ〱してる子供のことや、又此寒さを目がけて産れる子供のことや、滅茶苦茶に産む嬶の事を考えると、全くがつかりしてしまつた。
・「一円九十銭の日当の中から、日に、五十銭の米を二升食われて、九十銭で着たり、住んだり、箆棒奴!どうして飲めるんだい!」
ざっとこんなもんです。

このように「飲酒」と「子供」に関する記述が同時に、あるいは近い場所で出てくることには意味があるように思います。
与三の頭に第一にあるのは、「飲むこと」なのではないでしょうか。
それが、子供が多くなればなるほどままならなくなる。その事実に、苛立つ。
子だくさんの原因の半分は己にあるにもかかわらず、すべて妻が悪いかのような言いぐさなのも気になります。
松戸与三、夫としても父としても、あまりいい印象を持てません。
遅かれ早かれ家計が立ち行かなくなり、それなのにどうにかして酒を飲み、酔いにまかせて子供や妻に暴力をふるう…古今東西の創作物でさんざん使い古されてきたステレオタイプの悪い父親になりそうな未来を、読み手は想像してしまうのではないでしょうか。

しかし、手紙を読んだあと。
まず最初に与三が感じるのは「湧きかえるような、子供たちの騒ぎ」です。
そして、先ほども触れたように「酔いたい」と思いながらも「妻のお腹の中の子供」に思いを馳せるのです。
「手紙」以前と以後で、与三の中の「飲酒」と「子供」のポジションに変化が起こったのではないでしょうか。

飲酒 > 子供

だったものが、手紙を読んだことで

飲酒 < 子供

に変わったのではないか、と思うのです。
「へゞれけに酔つぱらいてえなあ。そうして何もかも打ち壊して見てえなあ」という与三の発言には、言葉どおりの「酔いたい」という願望よりも、「そんなふうに振る舞うことはできない」という響きのほうが強く感じられるような気がします。
そうした流れを受けて、この作品は「彼は、細君の大きな腹の中に七人目の子供を見た。」という一文で結ばれるのです。

わたしは、手紙を読んだことで与三に父親…あるいは一家の大黒柱であるという「自覚」や「責任感」が芽生えたのではないかと思いました。そしてそのことを、手紙の「もうこれまでのようには酔えないだろう」というセリフに込めました。
これは、実はネガティブな言葉ではなく、これまでのようにその日ぐらしでなにかと飲酒をしたがる無責任さから与三が目を覚ましたことをさす、ポジティブな言葉なのです。

もちろん、これは動画の「作り手」としての個人的なこだわりなので、「このように受け取らなきゃダメ」というわけでは全くないです。むしろ、あの限定的な作り方でここまで受け取るのは無理があると思います。原作あってのものです。
動画を見て「わけがわからん」と思ったひとが、原作に触れて「ここはこういうことか」だったり「もっとわけがわからなくなったぞ」だったりと、いろいろな思考に至るきっかけとなれたのならうれしいです。

さて。
読んだだけで与三をすっかり変えてしまったこの手紙、いったいなにが書かれていたのでしょうか。
けっして長くはないものの、「――私はNセメント会社の、セメント袋を縫う女工です。私の恋人は破砕機へ石を入れることを仕事にしていました。」という有無を言わせぬ自己紹介からはじまるこの手紙の内容は、前述したとおりなかなかにショッキングなものとなっています。
その中で、くり返し使われている言葉があります。それは、「労働者」です。また、書き手の女工も、その恋人も、松戸与三もみんなみんな労働者なのです。
そして、この手紙は次のように閉じられます。
「あなたも御用心なさいませ。さようなら。」

この点について、『近代文学入門』(双文社出版)内の「セメント樽の中の手紙」の解説で、中井裕子という方が「日給で飲むことしか考えていない与三は、その女工からの「あなたは労働者ですか」という問いによって、はじめて階級的自己認識を迫られることになる。」と指摘しています。
また、『対照読解 川端康成〈ことば〉の仕組み』(蒼丘書林)にて馬場重行という方が、「これは「一杯飲んで食ふことを専門に考へ」るにすぎなかった労働者(与三)が、女工の手紙という虚構化された〈ことば〉と出会い、その衝撃に立ち竦む物語である。女工は作品成立当時の現実の女工としてではなく、巧みな修辞を駆使し、思想と心情とを見事に融合させて手紙を綴る虚構の書き手として立ち現れている。」と解説しています。

ここで、捨てずに残しておいた学生時代のノートを見てみます。
「江戸時代、思想性の強いものは「上の文学」とされ、主に武士のものであった。一方で虚構性の強いものは「下の文学」とされ、庶民のものであった。それらがひとつの文学になっていく過程で発展していったのが、近代文学である。」

以上のことをまとめて考えてみると、『セメント樽の中の手紙』はプロレタリア文学として優れているだけでなく、近代文学としても非常にすばらしい作品だということがわかります。与三が女工からの手紙を読んでハッとしたように、読者もまた、フィクションであるこの作品を読んでハッとさせられる部分があるのではないでしょうか。

最後に再び中井裕子氏の解説からふたつほどご紹介させていただいて、編集後記を終わりにしたいと思います。

「本作品は、その労働基底部の人間の「賤の貴」を鮮やかに切りとって見せた名作である。」
「資本家と労働者が存在するかぎり、「セメント樽の中の手紙」は「古典」として、「現代性」を持ち続ける。」